アカデミックな気分で、緑豊かな公園やお屋敷の魅力に浸れる町  東京文京区を歩く

ヨーロッパの由緒ある広場をイメージした彫刻がある

今回行ったのは、都心の北方に位置する文京区。東大など、さまざまな大学がたくさんあるから、文教地区をイメージするネーミングだなと感じていたのです。でも、実際行ってみると、かなり起伏の多い土地で、急な坂道がたっぷり。知識だけでは、この土地で暮らすのには骨が折れるかも、と思いました。

…ということで、ウォーキングのスタートは営団地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅。茗荷谷(みょうがだに)とは粋なネーミングですが、かつてこの辺りは、茗荷がたくさん採れたからだとか。茗荷がたくさん生えているのはどんな景色なのだろうと、まわりをキョロキョロ眺めます。しかし、ビルばっかりで、全然イメージがわいてこないのでした。

目の前の春日通りを渡ってすぐ近くにあるのが、窪町東公園。そこには、童話の世界から飛び出たような彫刻が並んでいます。

これらの彫刻は、文京区とドイツのカイザースラウテルン市の「姉妹都市提携」のシンボルとして、同市の彫刻家ゲルノト・ルンプフ、バルバラ・ルンプフ夫妻が作成したものらしい。

テーマは、「神話空間への招待」だそうで、ユニコーンや魚など、子供たちが遊具として触れ合えるところがいいですな。

名門国立大学の跡地にある教育の森公園

窪町東公園すぐのところにあるのが教育の森公園。教育の森とは、さすが文教の文京区という感じですが、実は、かつてここに日本の教育界で絶大な力を誇った東京教育大学があったのでした。東京教育大は、現在の筑波大学の前身ですな。今も立派な建物があり、筑波大学や放送大学のキャンパスになっているみたい。

緑豊かな教育の森公園は、何となくアカデミックな風が吹いているような気がしました。

公園の中にある占春園と呼ばれる日本庭園を散策します。

どうして大学の跡地なのに、こんな自然が残っているのかといいますと、ここは江戸時代、守山藩の上屋敷の跡だったからなのですな。当時の大名庭園のあとなのですか。東大の三四郎池のあたりの自然も、加賀百万石前田家の上屋敷の庭園だったのを思いだました。

日本庭園にしては野趣あふれる雰囲気だと思ったら、ここは隣にある筑波大学附属小学校の自然観察など理科教育の場としても利用されているからですかね。

江戸時代のベストセラー作家と徳川幕府最後の将軍ゆかりの土地

再び春日通りを渡り、細い道を道なりにしばらくいくと、拓殖大学の近くに、深光寺がありました。ここには、南総里見八犬伝で有名な滝沢馬琴の墓があります。

滝沢馬琴は、八犬伝を書いた頃は目が見えなくなってしまったそうですね。そのとき、口述筆記で助けたのが、長男の嫁の路女だったとか。彼女の墓も、馬琴の墓のすぐそばにありました。

寺を出て、昔はカエルの大合唱が聞こえたという蛙坂の曲がりくねった坂道を登り、住宅街の静かな道を行くと、左に立派な石碑が建っていました。

碑には、「切支丹屋敷跡」の文字が。江戸時代はご存知のように鎖国していて、キリスト教はご法度ですね。前からいた宣教師たちは、ここへ入れられてしまったのですか。長崎にあるのはわかるのですが、江戸にも切支丹にまつわる史跡が残っていたのは少し意外でした。

近くの切支丹坂を下り、再び春日通りに出てしばらく行って角を右折、丸ノ内線の陸橋を渡ると、右手に「徳川慶喜終焉の地」の解説板が寂しく立っています。

解説板の後ろは現在、仏教関係の大学院大学のキャンパス。この広大な土地は、かつてケイキさんのお屋敷だったのですか。

幕末ものの大河ドラマには必ず登場しますが、作品によって名君になったり、バカ殿様になったりさまざまですが、ホントはどっちなのでしょうね。

解説板の立つ今井坂を下り、突き当りを右折すると、称名寺や日輪寺といった由緒ある寺が並ぶ通りに出ます。お寺の門前の解説板に一つひとつ目を通しながらゆっくり雰囲気を楽しみました。

首都高速道路の高架の手前で右折し、次の角の右手が鷺坂。解説板によれば、この近くに詩人の堀口大学や三好達治、佐藤春夫などが暮らしていたそうですね。小説に書きたくなるような風情ある坂ですが、私は城跡に見えて仕方ありませんでした。

台地の下の道を歩くと、右手は石積みの高い崖。城跡の石垣だと言っても、信じる人が多いかもしれませぬ。

今宮神社の先にある八幡坂を上り、道なりに細い道を行くと、左側にお屋敷の塀が続いています。

鼠坂という由来が知りたいネーミングの坂を下り、音羽通りを左に歩き、しばらく行くと立派な門構えの豪邸がありました。

日本の近代政治の舞台になった御殿がある

豪邸と言っても、普通の豪邸ではありませぬ。見えるのは、門とそこから続く坂道だけ。屋敷の中の坂道といっても、これは公道と言っても過言ではないでしょうね。

きれいに舗装された坂道をひたすら登り、山頂に立つと、古い洋館が目の前に現れました。綾辻行人の館シリーズや金田一少年がこの中で活躍しそうな雰囲気ですが。

大理石の階段に敷かれた赤い絨毯を踏んで、屋敷のなかに入ります。広い廊下の右手には、広い応接室や食堂、サンルームがありました。

応接室のソファーでは、見学者が腰かけてビデオの画面を眺めています。

光あふれるサンルームを抜け、庭園へ。それほど広くはないけれど、よく手入れされていますね。

庭には、さまざまな色のバラが咲いていて、ハイカラな洋館と見事にマッチしていました。

庭の一角には、それほど古くはない内閣総理大臣「鳩山一郎」の銅像が。

もうお分かりだと思いますが、ここは日本の近代政治と教育界に偉大な貢献をしてきたといわれる鳩山家のお屋敷のあとなのでした。

鳩山家は、初代の和夫氏が洋行帰りの弁護士で、のちに衆議院議員。長男の一郎氏が総理大臣。そのまた長男の威一郎氏が大蔵事務次官や外務大臣。さらにそのまた長男のご存知、由紀夫氏が総理大臣を務めたのでした。たなみに、最近亡くなった弟の邦夫氏も大臣経験者。

近代日本の政治史を語る上で、絶対に外すことはできない家系であることは間違いないようで。

このお屋敷は通称、音羽御殿。今は、鳩山会館となっているのですね。何でも、鳩山家が音羽の地に住み始めたのは、明治24年の秋らしい。洋館が完成したのは、大正13年なのですか。

再び、お屋敷の中に入って、中をぐるぐる見て回ります。一階は、さまほど書いたとおり、応接室やサンルームがあるのですが、食堂も含めると応接室が3つもあるのですか。鳩山一郎氏が活躍していた頃、民主自由党と民主党が一緒になって自由党が発足したのですな。

そのとき、このお屋敷の応接間が会合の場として度々用いられたらしい。また彼が総理になってから、ソ連との国交回復の打ち合わせもここで行われたのですか。総理大臣当時、この椅子に腰かけて日本のかじ取りをいろいろ考えたのかもしれませぬ。

私は、結構豪邸を見学する機会は少なくないですが、ここは思ったより小ぶりで使い勝手が良さそうだと感じました。昔の宮様や財閥のお屋敷だった洋館は、やたら広いのです。トイレへ行くのに、30メートル以上も歩く必要があったり。もし住んだとしたら、家の中を移動するだけで疲れるでしょうね。

見学者に人気があったのは、意外にブラウン管式テレビで、みんな懐かしそうに眺めていました。昔は、こんな画面の小さいテレビが大画面として売り出されていたのですな。

二階へ向かう階段の踊り場部分にあるステンドグラス。

五重塔の上を鳩が舞う図柄で、鳩へのこだわりが感じられました。小川三知の作品らしいですが、どっかで見たことがあると思ったら、かつて「なんでも鑑定団」で紹介されていたような。

二階は、寝室が3部屋並んでいたそうですが、現在は間仕切りを撤去し、大広間に改装されています。

そして大広間を挟んでそれぞれ鳩山一郎記念室と鳩山威一郎記念室。ここは、かつて書斎として使用されていた部屋を書簡や軍服、文具などの展示、議員時代の給与明細や自動車の運転免許証、デスマスクなどの遺品も収められていました。

それにしても、バルコニーから見た鹿のレリーフ。一般庶民から見たら、いつも鹿から見下ろされているのは落ち着かないかも。

永嶋 信晴

永嶋 信晴ビジネス便利屋兼ウォーキングライター

投稿者の過去記事

東京生まれ。早稲田大学および日本大学卒業。地方銀行に約十年間勤務した後、各種業務代行会社を設立し独立。趣味はウォーキングで、各地の名所旧跡を歴史的、あるいはオヤジ的な見地から訪ね歩く。司馬遼太郎とBS旅番組のファン。著書は、「新規開拓営業の教科書」(青月社)、「ハッスル老健」(ゆまに書房」など多数。

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